
ぶらあぼONLINE:海の向こうの音楽家
テレビなどで海外オケのコンサートを見ていると「あれ、このひと日本人かな?」と思うことがよくありますよね。国内ではあまり名前を知られていなくとも、海外を拠点に活動する音楽家はたくさんいます。勝手が違う異国の地で、生活に不自由を感じることもたくさんあるはず。でもすベては芸術のため。このコーナーでは、そんな海外で暮らし、活動に打ち込む芸術家のリアルをご紹介していきます。
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本シリーズ16回目はアメリカを拠点に活動するピアニスト・中西聖嗣さんです。ニューヨーク州立大学パーチェス校でピアノを学んだ後、京都大学大学院農学研究科を修了。現在は演奏活動の傍らイェール大学医学部で研究者として勤務するという異色の経歴の持ち主です。この3月、そんな中西さんに舞い込んできた音楽の殿堂カーネギーホールでの公演の制作依頼。研究者として多忙を極める彼が下した決断とは?
文:中西聖嗣
写真:遠藤長光
Chapter 1. プロローグ
いつの間にか私は音楽ホールの舞台袖に立って、ドアの隙間から舞台を覗いている。
目の前にはチューニングを終えたオーケストラと満席の観客。促されるがままステージに進みピアノの前に座るが、私には何を弾くのかさえ知らされていない。オーケストラが序奏を演奏し始める。なぜかこういう時は、決まってラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が流れてくる。練習したことはあるし良く知っているつもりの曲だけれども「はい、どーぞ」といきなり言われて演奏できる曲ではない…案の定回らなくなる指…飛んでいく暗譜…どうしてこんなことに…どうして…
…と冷や汗まみれに朝の目覚めを迎えたことがある音楽家は、たぶん私だけではないはずだ。
それが現実に起こった。
そう書くと多少オーバーではあるが、それにかなり近いことなら、つい最近起きた。

Chatper 2. きっかけ
とあるSNSの投稿を見かけたことから、全ては始まった。
「カーネギーホールの来月の枠に突然空きが出たので、演奏会を企画できるアーティストを探している—」
普段の私であれば、この類の投稿はさらっと読み流してしまったことだろう。
2021年にN音楽企画という音楽団体を立ち上げる前から、演奏会は主に自分で企画し、運営と演奏の両方に常に関わってきた私は、「来月」「演奏会を企画して」「演奏する」ことがいかに無謀なことかを思い知っている。加えて現在の私は、ニューヨークから北東に100キロほど離れたニューヘイブンという街のイェール大学という場所で遺伝子学の研究に携わっていて、ニューヨークは仕事や用事があるときに月に数回往復する程度。音楽留学時代に住んでいた街だから友人は数多くいるが、友達が数人聴きに来てくれるだけでは残念ながら演奏会は成立しない。
引き受けるにはあまりに時間的・距離的制約というリスクが大きすぎる…そう思いながらも、ぱっと思いついた音楽家の友人数名に投稿を転送する。返事はどれも期待通り「そりゃやってみたい気持ちはあるけど、いくらなんでも来月ってねえ…」というものだった。
話は変わるが数ヵ月前からアメリカという国は、とてつもなく大きな変化の中にある。スマホを開くたび、政府機関が閉鎖されたり、大量の職員が解雇されたりといったニュースが目に飛び込んできて、たとえそれが私のような移民でなかったとしても、いつ、誰が、どのような形で日常を失うか分からない、そんな状況が続いている。私もその渦に飲み込まれそうになりながら、ある日ふと、このようなことを考えたのだった。
「明日のことが分からない社会になってしまったのなら、今の自分にできることを本当に全部やってみよう。失敗したって、人から嫌われたっていいじゃないか。だってその人たちも、自分も、いつまでこの日常があるのか、明日はどんな生活をしているか分からないのだから」
そんなわけで、本来流れていくはずだった先の投稿は私の目に止まり、とにかく話だけでも一度聞いてみようと投稿主に連絡をしたのだった。

Chapter 3. 鶴の一声
ここに連絡してちょうだいと言われるがまま、引き継がれた先の事務所の担当者に電話で事情を聞いた。やはり1ヵ月で演奏会を「企画し」「演奏してほしい」という。元々予定されていた公演を、事情によりキャンセルせざるを得なくなったというのだ。聞けば聞くほど、これは難しいなという冷静な思いが強くなってきた。
本来この規模の演奏会は、ホールを借りる1年以上前から入念に計画して行うものだ。それを1ヵ月で、しかも学生のときとは違い、フルタイムの研究職の傍で進めなければならない。「考えてみます…」とふにゃふにゃ言いながら電話を切りあげ、そのままベッドに倒れ込んだ。
翌日は珍しく休日で、さてどうやってこの件をお断りしようか、そんなことを考えながら遅いコーヒータイムを過ごしていた。休みの日は日本にいる音楽仲間と電話で世間話をすることが多い。日本とアメリカ東部の14時間という時差は、互いのフリータイムを見つけるのに案外都合がいいのだ。なんてことない世間話の合間にふと例の件に話題が及んだとき、電話先の友人は「えっ」と一瞬言葉に詰まり、それから堰を切ったように話し出した。
「私ね、今パリでの演奏の仕事から帰ってきたばっかりなんだけど、来月のその時期にはあまり予定は入ってない。それに、アメリカでの演奏活動の機会があればいいなとずっと思ってた。カーネギーホールでそれが叶うのなら…こんなチャンスは二度と巡ってこないかもしれない。私、今から飛行機のチケットを買うことにするわ。ハープのレンタルさえアメリカでできるなら、一緒に何ができるか考えない?」
この少し破天荒な友人こそ、私の活動や企画のことをずっと応援してきてくれたお姉さん的存在にして、日本を代表するハーピストの福井麻衣さんだった。彼女の鶴の一声は私を絶句させ、それから静かに、しかし確実に私のスイッチを入れた。これまでに聴くことのできた彼女の素晴らしい演奏の数々が頭に浮かんでくる…もしかしたら、彼女となら、何かができるかもしれない。頭が、それまでとは別方向へとゆっくり回転し始めた。
「企画書を書いてみるので1日から2日ください。私に話を持ってきてくれた事務所がどれくらい協力してくれるのかを明確にして、最終的に判断させてもらえませんか?」

Chatper 4. “Dialogue”
これまで半端に企画を走らせてきた人間が陥りやすい悪い癖は、企画書を書き始めたら最後、それを実行する気満々になってしまうことだ。企画書は、あくまでそのプロジェクトの成否を判断するための提案の材料に過ぎないことを、すぐに忘れてしまう。
果たして「対話」と「ファンタジー」という2つの要素を主題に据えた演奏会のアイディアが、一夜のうちに企画書となって姿を現した。
少し音楽の話もしよう。ハープとピアノのデュオは、滅多に出会うことのない組み合わせの室内楽だ。どちらもたくさんの弦を鳴らして音を出す楽器である上、その音域まで似ているから、室内楽的な相性が良いとは言い難い。ピアノの連弾曲や2台ピアノのために作曲された曲をハープとピアノで演奏するのはときどき見かけるが、そこにハープとピアノで演奏されるべき必然性を見出すのはなかなか難しい。
その点において、一柳慧氏が1982年に作曲し、出版・初演された「夏の花」は、ハープとピアノのために作曲された数少ない作品の一つだ。加えて一柳氏はニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ後、長年にわたってニューヨークと日本の両方で活動した作曲家である。そんな彼がハープとピアノという珍しい組み合わせのために作曲した作品を、2人の日本人演奏家がニューヨークで演奏しない訳にはいかない。「夏の花」は一番最初にプログラムのリストに加わった。



音楽の「対話」というアイディアは、ハープとピアノで演奏できる曲の少なさを埋め合わせる苦肉の策として考え始めた。ソロの小品をお互い順番に弾きあうことで、インスピレーションのやり取りを会場全体で共有する。考えを煮詰めていくうちに、この特殊な「弾きあい」のスタイルは、10年以上お互いを知り合っている共演者同士だからこそ実現できることではないかと確信するまでに至った。はじまりと終わりはラヴェルの「マ・メール・ロワ」から「眠れる森の美女」の小品をそれぞれ配置することで「幻想」との関わりを持たせつつ、全体的なまとまりの演出を狙った。
「対話」を成立させる前提として、それぞれの「声」と「言葉」を最初に聞いてもらおうとも考えた。それで、あえて2人ともが「亜麻色の髪の乙女」からはじめて「幻想曲」で終えるという独奏のプログラムを提案した。私たちがそれぞれの音楽観をどのように表現するのか、それを一つの文脈の中で楽しんでほしいと考えたのだった。
こうして浮かんできたアイディアを思いついた順から反対に並び替え、それぞれにMonologue I (Harp Solo) / Monologue II (Piano Solo) / Dialogue (Harp & Piano) / Resonance (Harp + Piano) というタイトルをつけた。この作業が終わった時には私はすっかりやる気になって、福井麻衣さんと事務所に「とにかくやってみましょう!」と、意気揚々と向こうみずな宣言をしたのだった。


Chatper 5. それから
幸いにもフランスとアメリカのハープ製作・販売会社2社が早々に「ハープの運搬やレンタル、その費用のことは私たちに任せて!」と協賛への名乗りをあげてくださり、プロジェクトが正式に始動した。3月第1週目の週末のことだった。それから先のことはあまり覚えていない。研究室での仕事をそれらしくこなしつつ、スケジュールの作成、情報公開にチケット販売、広報物の作成に自分の練習と、とにかく手を動かし続ける毎日だった。「寝る間も惜しんで」と書きたいところだが、こういう非常事態にこそ健康管理は大事だと思い、毎日一定の睡眠を取ることも欠かさなかった。
例の宣言からしばらくしてチケットが販売開始となり、公演を周知するための作業を始めた。数日経つごとに、空っぽだったホールの座席表に、その座席が売れたことを示す印がつき始める。1枚、そしてまた1枚。時々2、3枚がまとめて売れた。「できることは全部やる」という最初に自分に課した目標を実現するべく、私たちのことを知らないであろう団体や企業にもたくさんお声がけした。自分がいかに恥ずかしい営業の真似事しかしてこなかったか、とくと思い知らされた。一方で、これまでも私を応援してくれたニューヨークや近郊の知り合いが「行くよ!友達にも声をかけるしみんな連れて行くからね!」と次々に声をかけてくれた。支えられることのありがたみと、人々の温かさを強く強く噛み締める毎日だった。

Chatper 6. エピローグ
いつの間にか私はカーネギーホールの舞台袖に立って、ドアの隙間から舞台を覗いている。
でも、目の前に広がっている光景はチューニングを終えたオーケストラではない。
静謐な舞台の上にはピアノとハープが1台ずつ。客席はまだ空っぽだ。
舞台上ではスタインウェイ・ニューヨーク本社の素晴らしい調律師、鐘ヶ江洋美さんが手早く、丁寧にそして繊細に、ピアノを最高の状態に整えている。
大切な友人でもある洋美さんに挨拶してからピアノをチェックし、楽屋に戻ると、スタッフが舞台袖で大騒ぎをしていた。聞けば、開演数時間前にして20枚以上の予約が入り、1階の席はほとんど満席になったという。直前まで予定の決まらないニューヨークの人たちが、コンサートのチケットをギリギリに買うのはよく知られた話だが、それにしてもここまでとは。
かくして…舞台上は最高の時間だった!
私の無謀な挑戦を堂々と受けて立ってくださった麻衣さんの演奏はただただ素晴らしく、音楽でのDialogue —「対話」は、このままずっと続けていたい…と思ってしまう、幸せなやり取りの連続だった。
音楽はときに「再現芸術」と言われるが、あの日、あの時空を共有した全ての人との特別な体験は、決して誰にも、そして何にも再現されることはないだろう。音楽はときに「瞬間芸術」とも言われるが、あの日、あの時空を共有した全ての人との特別な体験は、私の心の中に、そして願わくばあの場にいた人々の心の中に、ずっと残り続けるだろう。
音楽は、夢だ。


文: 中西聖嗣 Seiji Nakanishi
京都市出身。ニューヨーク州立大学パーチェス校でピアノ演奏の修士号を取得。京都大学大学院農学研究科にて農学修士号も取得しており、現在はイェール大学医学部にて遺伝子学の研究に携わっている。2021年N音楽企画を設立し、演奏会企画のプロデュースや演奏活動など、多岐にわたって活動している。
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写真: 遠藤長光 Nagamitsu Endo
上智大法学部卒、プラット・インスティテュート大学院芸術学部写真専攻科修了。NHKの米国関連会社に入社後、2001年9月11日の同時多発テロ事件を契機にアフガン侵攻、イラク戦争、キューバ革命50周年、アメリカの銃暴力、人種差別などをテーマに多数のドキュメンタリー番組を制作。NHKの8K/4K放送の創世記にはその技術の普及に奔走し、最新鋭の放送技術を駆使したジャズライブをはじめとする多数の音楽番組の制作に携わる。2023年独立、NAGAVISION INC. を設立。
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